- JLogos検索辞書>
- 川崎村(近世)とは
「川崎村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治9年頃の村名津軽郡田舎庄のうち津軽半島東南部の青森平野に位置する東に浜松村,北に小橋村,南に左堰村がある天保9年の郷村帳(弘前図書館蔵)によれば,当村は東隣の浜松村から分村したという弘前藩領村高は,「貞享4年検地水帳」166石余(田153石余・畑屋敷13石余),「天保郷帳」には見えず,「旧高旧領」171石余当村は,いわゆる外ケ浜上磯通にふくまれる「貞享4検地水帳」によれば,小字に「福田・千鳥」があり(浜松村と共通する),反別は田21町5反余・畑屋敷3町1反余(うち屋敷地6反余),田は上田から下々田まで,畑は中畑から下々畑まで設定されていた元禄3年には後潟組に属し,村位は下(平山日記)宝暦9年の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある当村は水田耕作を主とする村である享和2年の伊能忠敬「測量日記」によれば,小橋・川崎・浜松の3か村をあわせて家数68軒で,名主は1人とあるこの頃当村は小橋村の寄村であったと思われる明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の戸数6,村況は「四方田畑にして,西は山に近し,東浜松村まて一丁」という(国誌)明治7年の県管内村名簿には一村として見えるが,のち小橋村と合併したという印があり,明治9年頃小橋村の一部となったと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
川崎村(近世) 江戸期の村名神埼【かんざき】郡のうち古くは河崎村とも書いた中地江川の東岸に位置し,境原道に沿う蓮池藩領蒲田郷に属す村高は520石余(蓮池日史略)東は余江村,西は東野ケ里村に接する川崎橋を元標に神埼宿へ1里23町余,境原宿へ7町,佐賀城下白山宿へ1里25町余の里程人家の中に御水堀が縦横に通るまた御水堀の水は伏せ閘で犬童川の川底を通り,蓮池城下の用水や田水として送られた(神埼郡村誌)宝暦7年当村と大橋村の間にある蓮池城下の飲料水水道の川底水道樋管を修繕している天明8年蓮池藩の火災における参候所および警衛部署として,当村役丁10人が蓮池城下の玄栄寺の警衛消防に,役丁5人が蓮池藩の中地御蔵に管する預備に当たっている文化14年蓮池藩主鍋島直与は,当村の惣右衛門の母90歳を祝し,終身まで毎年米1俵を与えた(蓮池日史略)鎮守は応神天皇を祀る八幡神社「明治7年取調帳」「郷村区別帳」では余江村の枝村として見える「明治11年戸口帳」によれば余江村のうちに「川崎村」と見え,戸数47・人口254... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」